礼誠親衛居合兵術 礼誠親衛居合兵術は、静坐・修兵所作により外形を固めて朱熹教学を以て 内心の徳性を涵養し仁や敬を誠として尽し万事に対応する文武兼備の修養 士道です。 徳川三代将軍家光の代寛永後期新番創設 軍政体制改革に江戸城本丸御 殿御書院、表書院各間警備に即し、危急変事に対処しうる朱熹思想の身心 鍛錬法静坐を基に教学要素を付与した近習修兵所作、親衛居合兵術が将軍 親衛部隊両御番(小姓組・書院番)に将軍家康・秀忠・家光三代に渡って の近習松田六郎左衛門定勝により伝授され、近習諸家に於いて日用錬成、 世襲相伝されました。 親衛居合兵術は、武家松田氏により夏官司馬(軍事練兵)坐作進退、疾徐 疏數之節を範にした修兵所作で代々相伝の家法・兵法術。 当道場では祖先伝来の親衛居合兵術を承継し、礼誠親衛居合兵術を創始、 心身修養、養生に有志と共に日々稽古に励んでいます。 正心誠意格物致知 修身斉家治国平天下 道場長 越田 喜兵衛 KIHYOU KOSHIDA |
礼誠親衛居合兵術 系統 松田六郎左衛門康定 松田六郎左衛門康郷 松田六郎左衛門定勝 松田六郎左衛門定平 小栗仁右衛門正信 大森久七郎頼直 山鹿甚五左衛門高祏 |
静坐 自若従容 静坐は無事の時に心のざわめきを息めるべく務めることで心の主体性を回復 する工夫である。また究理(物事の道理を明らかにすること)しえたものを内 面に存養(本来の心を失わないようにして、その善性を養い育てる)し生かす 工夫である。静坐において心の主体性と知性が獲得されてくればいかに突如と して事件がおこっても、その事に心をうばわれ妄動することなく、うろたえる ことなく、自若従容(心の動じないようす)として事に正しく対処しうる。 決断すべく意識することなく、おのずから正しく振舞いうるに至る。 「佐藤直方(江戸時代の儒学者)」より。 當流極意 無為十方親衛備 無為とは、威が十方、東・西・南・北の四方、北西・南西・北東・南東の四隅、上・下 満ちあふれ全ての恐れ疑いさらに自分の意識さえ消えて、威が自らあふれでて その威は不転の位となり動かずに敵を制す、さらに威から自ら勢があふれでて 転化の位となり動いて万化に応じるを云う。 備えをとること方円神心の曲尺を用う、大将中央に居し、諸士前後左右に 備(坐)わるは方なり。各陰陽ありて八方につらなるは円なり。是を備の方円 と云う。手分・手配・手与して四方に分ち八方につらなるといえども、主一 人の下知を心とし事に随て変化し、当然の道理によって動くは、神心の曲尺 なり。大より小に至までこれをもちゆ、是備法なり。 「華厳思想」「北条流兵法」より 居合は剣術の中の一術 「武備和訓」 居合と剣と一術であるものを、教授を別にすること心得難い。剣術の総體 は、居合を本とし、立合を末とする。本を知らずして、末の治まる譯がない。 居合を知つて立合をしらなければ、歩くを知つて、走るを知らぬやうなもの であり、剣術を知つて、居合を知らなければ、走つてのみゐて、歩かうとし ないものである。歩くは常であり、走るは變である。 剣、鞘にある時、その意味の深きこと、たとえば大極の静なるが如く、剣、 鞘を潜るは、一理陰陽たらうとするに似(にる)、剣、鯉口を離れるところで、 天地初めて位し、鯉口を離れ切れば、敵は既に二つとなつてゐるのだから、 天地位し終り、神明その中にある。 剣術の雌雄(しゆう)は、鞘を離れない中に勝負がある。鞘をはづしてから、 勝を求めたのでは危い。剣の鞘における、武の武たることを知るべきである。 剣を鍛へようとならば、居合より極めよ。 居合の本理は短刀にある 「武備和訓」 坐つて刀を抜くを、居合と心得ているが、坐つても立つても、刀が鯉口を 離れるところに本理があるので、刀を抜くのみが居合ではない。坐つていて、 速く刀の 鞘をはづすは誰にも出来る。坐席にあつては、小刀か脇差かの 勝負であるから、居合の本理は短刀にある。刀の遠きに及ぶように短刀を 抜き、敵の手を組み合うほどの手詰にいて、短刀が近きを刺すように刀を 抜く。このようなところに居合の本理がある。刀が鯉口を離れると同時に、 敵を討ち。取るのが居合である。 剣術心法術法 天狗芸術論 〇問ふ、何をか動きてうごくことなく、静かにしてしづかなることなしと いふ。日はく、人は動物なり、うごかざることあたはず。日用人事の応用多 端なりといへども、此の心物のために動かされず、無欲無我の心体は、秦 然(たいぜん:落ち着いていて物事に驚かないさまのこと)として自若(落 ち着いていて、心や態度に少しの乱れもないさま)たり、剣術を以て語らば、 多勢の中に取籠(とかご)められ、右往左往にはたらく時も、生死に決して 神定まり多勢のために念(常に心の中を往来しているおもい)を動ぜざる、 是を動きて動くことなしといふ。 汝馬を乗る者を見ずや。善くのる者は馬東西に馳すれども、乗る者の泰 (ゆたか)にして忙しきことなく、形しづかにしてうごくことなし。外より見 ては馬と人とつくり付けたるがごとし。たゞかれが邪気をおさへたるのみに て、馬の性に悖(もと:そむく)ふことなし。故に人鞍の上に跨(またが)り て馬に主たりといへども、馬是に従ひてしむことなく自得して往(ゆ)く。 馬は人を忘れ人は馬をわすれて、精神にして一体にして相はなれず。 是を鞍上に人なく。鞍下に馬なしともいふべし。是動きてうごくことなきの、 かたちにあらはれて見易きもの也。未熟なるものは、馬の性に悖(そむ)ひ して我もまた安からず、常に馬と我とはなれていさかふゆゑに、馬のはする にたがひて五体動き心忙しく、馬も亦疲れくるしむ。 或馬書に馬のよみたる哥なりとて(馬なり)打込みてゆかんとすれば引きと めて□にかゝりてゆかれざるなり其馬に代りて其の情を知らせたる者なり。 唯馬のみにあらず、人を使ふにも此の心あるべし。一切の事物の情に悖 (そむ)ふて小知を先にする時は、我もいしがしく、人も困しむものなり、 何をか静かにしてしづか静かにしてしづなることなしといふ。 喜怒哀楽未発の時、心体空々として一物の蓄へなく、至静無慾の中より物 来るにしたがひて応じて、其の用きはまりつくることなし。 静かにして動かざる者は心の体也。動いて物に応ずる者は心の用なり。 体はしづかにして衆理を具へて霊明なり。 用は動いて天則に従ひて万事に応ず。体用は一源なり。是を動きてうごく ことなく、静かにしてしづかなることなしといといふ。 剣術を以て語らば、 剣戟(けんほこ)を執りて敵に向ふ。潭(たん)然(ぜん)(深く)として悪むこと もなく惧(おそ)るゝこともなく、とやせんかくやと思ふ念もなき中より、敵の 来るに随いひて応用無碍(むげ)自在なるり。形はうごくといへども心は 静の体をうしなはず。しづかなりといへども動の用を欠かさず。鏡体静かに して物なく、万象来り移るにまかせて其の形をあらはすといへども、去る時 は影を留むることなし、水月のたとへに同じ。心体の霊明もまたかくのごと し。小人はうごく時は、うごくにひかれておのれを失ひ、静なる時は頑(がん) 空(くう)になりて用に応ずることなし。 |